オーストラリア旅行記1

 この記録は1989年のAustralia Tour日記(Title「南極星」)をもとに、記述されていない部分を中心に、薄れかけている記憶を可能な限り引き出したものである。

■参加メンバー
  ノブマサオヤジ(23歳)、リュウノスケ(21歳)、アッキー(21歳)、コウズィ(19歳)

 計画初期段階においては、ノブマサオヤジとリュウノスケの2人が1988年の春に二人っきりで行く予定であった。しかし、1987秋に二人とも交通事故で車を壊し、資金面からの問題から、1年遅れの実行とあいなった。
 旅行の直接の動機はノブマサオヤジが「南十字星を求めて」(誠文堂新光社、1981)に触発されたことによる。この本は関西学院大学の学生がニュージーランドで観測を行った内容であったが、当時の航空運賃が40万円。とてもじゃないが貧乏学生には無理ってもんだった。しかしながら、その後の円高などで、航空運賃も急落(今に比べれば高いが)。なんとかバイト代をためて行けないことはないレベルまで下がってきたのである。(キャセイパシフックとロイヤルブルネイ併用、伊丹−ダーウィン往復、159000円)
 一方、我々が所属した某大学の天文系サークルでは、「より暗い対象を!」「より南の対象を!」「見れそうなモノは全部見てやる!」というノリが流行していて、南天の対象を是非見てみたいという人が少なくとも4人は居たわけだ。
 という、「見たい人」と「行く方法」がそろって、「いっちょ、行くか。」となったのだ。

■使用観測機材
 そもそも、今回の旅の目的は、「南天観測」にある。大小マゼラン雲、南十字星、ηカリーナ等、日本から見えなくて、とても興味のある天体がオーストラリアにはたくさんある。個人的な興味、対象とする天体によって、それらを料理する方法が異なってくるのだが、今回は、各個人が以下のような観測をすることになった。
 しかしながら、学生寮の一室(アッキーの部屋)を占拠して設けられた出発準備ルームにおいて、出発前夜パッキングを行ったのだが、この結果は預け荷物一人当たり20kg×4人=80kgをオーバーするものだった。しかたなく、リュウノスケはシステム80型赤道儀を放棄し、カメラ用三脚にアトムの微動雲台を乗せ、そこにC8を乗せるという、アクロバティックな使用方法を選択することとなった。
 また、これらの荷物を運搬する為に、日本酒やビール用のケースを加工して2つの箱を自作したのだが、そのうち1つは置いていくことになった。で、C8を手荷物として、機内に持ち込むという荒技で臨むことになった。しかし、後から考えると、持ち込む際に望遠鏡の説明に少々手間取ったりするが、ダメならダメで、預かってくれるし、精密機器だを念をおせばスチュワーデスのネーチャンがそれなりに優しく扱ってくれるので、なかなかイイテだ。

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│ 氏名     │ 観測方法     │      観測機材、方法     │
├────────┼──────────┼──────────────────┤
│ノブマサオヤジ │ 写真(直焦点)  │ハイパーポライドカメラε−130  │
│        │          │高橋製作所製P2(赤道儀)     │
│        │          │一眼レフ2台(OMー1)、レンズ3本│
│        │          │ガイド鏡              │
├────────┼──────────┼──────────────────┤
│リュウノスケ  │ スケッチ     │セレストロンC8、スケッチ     │
│        │          │高橋製作所システム80型赤道儀   │
│        │          │一眼レフ1台            │
├────────┼──────────┼──────────────────┤
│アッキー    │          │一眼レフ1台            │
├────────┼──────────┼──────────────────┤
│コウズィ    │ 写真(星野)   │ PENTAX67、NIKON F │
└────────┴──────────┴──────────────────┘

■出発までのこと  (旅は出発前から)
 旅に出かけるには、当然「どこへいくか?」ということを厳密でないにしても、ある程度は考えるものである。ガイドブックを見、地図を広げ、「あ〜でもない」「こ〜でもない」と頭を痛めながら、旅のコース、日程、移動手段を決めていくのだ。なにしろ国内線は非常に高いので、バスとレンタカーの併用が難しい。さらにと観測機材の持ち運びと観光地の選択が絡んでくる。今回のツアーでは一晩徹夜して、あらかたのコースを決めた。
 その結果とは・・・Darwin→Perth→Adelaide→Yulara→Adelaide→Melbourne→Canberra→Sydney→Brisbane→Townsville→Darwinと、恐ろしいことに、日本の26倍?の面積を持つ国土を高々一ヶ月でほぼ一周していることになった。初めてということもあって、いろいろと欲張ってしまった。

■2月26日(出国の日)
 いよいよ日本を発つ日がやってきた。空港に面子がそろったのはいいが、コウズィとアッキーは作った箱の一つがないとこに驚く。昨晩、土壇場になって持って行けそうにないと判断しおいていくことにしたのを空港で始めて知ったわけだ。
 ところで、持っていく方の箱であるが、そこにはノブマサオヤジのε-130が入っているが、やけに派手な緑色をしていて、異様に目立った。この箱、この後のオーストラリアツアーでも度々登場することになるが、なにしろどこでも目立つ。預け荷物が空港で出てくるのを待つ時、非常に便利だ。
 さて、1ヶ月のAustraliaの長旅が始まる。なにしろ飛行機や空港が珍しくてしかたがない。シートの周りのスイッチをいじり回してスチュワーデスに怒られたり、カイタック空港をやたらと無駄にうろついたりした。余談になるが、ボーディングパス発行の際に、コウズィのチケットが一枚余分に引きちぎられて、後で揉めることになるが、そんなちょっとしたトラブルにもびびりまくっていた覚えがある。
 ロイヤルブルネイに乗り込むときにカノープス(日本では見るのが難しく、老人星と呼ばれる)が高く輝いているのが印象に残った。その後、機内では窓から見える南天の星空を巡って、幼稚園児レベルの窓際席の奪い合いが続いた。ちなみにロイヤルブルネイに乗る機会のある人は少ないでしょうが(今はなんと関空に乗り入れてる)、その機内食がまた、なんとも。まず、フルーツが山盛りでて、その後、油っぽいドリアなんか出ちゃったりする。要注意!

■2月27日(Darwin市内一日観光)
 Darwin International Airportはやたらと滑走路だけ立派で、ターミナルビルは「ビル」じゃない!平屋、いやほったてごやレベルだ。力が抜ける。さらに滑走路をとぼとぼ歩いていって、「ビル」内で見たのは、やたらと高くて白っぽい天井で、ゆるゆると回る無数の扇風機だった。誰かがポツリとひとこと、「エアコン無いね。」
 Darwinに到着は未明だった。熱帯の朝焼けをDarwin Airportでの入国審査後にみる。きれいなオレンジ色と熱帯性植物とのコントラストの美しさ。自然の宝庫、オーストラリアの第1ページである。Shuttle Bus(後ろに牽引車をつけており大きな荷物はそこに置く)でDarwin市街へ移動
 宿泊先は、Darwin市街にあるFour Seasons(航空券付属)という、四ツ星ホテルである。そこまで、Shuttle Busで行った。ホテルに着くと、何かの手違いで、予約者リストに名前はなかったものの泊まることはできた。
 日本で予約だけ入れ、チケットが取れているのかどうかわからなかったDarwin→PerthのAustralian航空のチケット受取や(Australian航空のチケットが万が一確保されなかった場合、我々はバスでPerthまで行こうとさえ言っていた。ちなみにチケット代はAU$436。)Northern Teritoryの情報収集のため、蒸し暑いDarwin市内を歩き回る。市内にはMAZDA 626(Capella)が異常に多かった(日本と異なる特徴としては、リアのサンシェード、ステアリングとシートにムートンのカバー付き、フロントの大型バンパー、そして圧倒的に5DrHBが多いこと)。
 昼食はモールにある中国系のChoku氏のTake Away店できし緬のようなものを食べた。
ここで、中国語訛りのオーストラリア英語に悩まされるのであった。飲食料の支払いの時に、彼はしきりに「パイパー」と言う。我々は何のことやらさっぱりわからなかったのだが、これは"paper"(紙幣)のことで、aの発音が「アイ」に訛っていたのだ。その後もしばしばオーストラリア訛りの英語に悩まされるのであった。
 食後、アラフラ海を見に行く。きれい。そこで蜃気楼を眺めていると、海上に真っ黒な雲とその下に斜線が。しかもこっちに向かっている。スコールだ。傘なんか当然持っていない我々はあわててホテルに帰った。
 夕食はMaharajaというレストランで初めて本物のインド料理を口にする。辛いのなんの。リュウノスケはカリーだけを頼んで食べていたので店員が気をきかせて、Boiled Riceのオーダーを取ることを勧めてくれた。AustraliaのBeerにも初めてチャレンジ、アルコール分が高いことを実感した。
 夕食後、FourSeasonsまでの夜道を歩いたが、熱帯性の雲に阻まれて南天の星々ははっきりと見ることができなかった。

■2月28日(パースへの移動)
 FourSeasonsからタクシーでAirPortへ移動。Darwin→Alice Springs→Adelaide→Perthと移動する。その際、我々はAlice Springsに着陸することを知らず、少々慌てた。Alice Springsの空港で一旦機外に出たが、目にしたものは強烈な直射日光と数多くの小型竜巻で、Australia内陸部乾燥地帯のすさまじさを実感した。
 Alice Springs→Adelaideの移動中、Lake Eyreの上空を通過。真白である。かつ巨大である。地図を広げていた私の隣に座っていたAustralianが、その白く巨大なものがEyre湖であることを教えてくれた。湖といっても水はない。塩の溜まった平地だ。記録によると有史以来4回しか溜まったことは無いそうだ。機上からの視界に入ってから消えていくまでに1時間ぐらいかかったような気がする。(当時の日記を見るとEyre湖周辺の緑を見て「羊の放牧地と思われる。」とあるが、とんでもない勘違いであったようだ。)
 Adelaide空港着陸の際に、Adelaideの住宅の屋根がほとんどすべて茶色であったことが今でも印象に残っている。
 Adelaide空港でPerth行きの便に乗り換えたが、余裕でチンタラチンタラと歩いて搭乗機に向かった我々が、その便に乗り込んだ最後の乗客であった。
 Perthへ向かう途中、ほとんど私は寝ていたような気がするが、西に向かって飛ぶ飛行機の窓から見える沈みかけの太陽が(なかなか沈まない)まぶしかったことを記憶している。
 Perth空港に着いたときは、辺りには夜の帳が降りていた。さっそく宿泊先を選定しなければならない。
明るいうちならば、色々なところを当たることもできたのだが、時間も遅くリスキーなことはしたくなかった。そこで・・・・。
ノブマサオヤジ『電話で泊まれるかどうか確認して行った方が無難やで。』
       (内心、誰かが電話してくれることを期待している。)
リュウノスケ『その方がいいと思います。』
      (内心、ノブマサオヤジが電話してくれるものと思っている。)
アッキー『そーですねー。』(同上)
コウズィ『・・・・・』(明らかに巻き込まれるのを避けている。)

 結局、ノブマサオヤジが電話で英会話することになった。緊張したものの何とかコミュニケーションもとれ、Pacific Motelを押さえることができた。
 タクシーに乗ってPacific Motelに着いたのち、我々は無性に喉が乾いた。その結果、ノブマサオヤジとリュウノスケ氏が夜のPerthにジュースを買い求めてPacific Motelをあとにした。ちょっと歩けば自動販売機ぐらいあるだろうと思っていた我々の期待は見事に裏切られた。
 日本と違ってAustraliaの町中で自動販売機をみつけるのは、お店を見つけるよりもはるかに難しいことなのである。しかも夜もふけていたため開いている店などあろうはずもない。おかげでPacific MotelはPerthの中心街からかなり離れていたにもかかわらず、我々はジュースを求めてPerthの中心街まで歩いて行ってしまった。しかし、収穫は0であった。
 この時、街灯のない住宅街の歩道を歩いていると、足元からペキペキと物の割れる音がしてくる。
ノブマサオヤジ  『なんかの木の実が落ちてるんやろか?』
リュウノスケ   『なんでしょうねー?』
と、会話をしながらも漾はペキペキ音を楽しみながら歩いている。すると、おもむろにリュウノスケ氏は座り込んで地面をながめている。
リュウノスケ   『あー、わかった。』
ノブマサオヤジ  『なんや、なんや。』
リュウノスケ   『これカタツムリですよー。』
2人が踏んでいたのは木の実ではなく、カタツムリだったのである。かくしてこの夜、数多くのカタツムリがペキペキ音とともに天寿を全うした。
 この時、市街地内であるにもかかわらず、大マゼラン雲・小マゼラン雲をはっきりと夜空に確認することができたのを覚えている。
 なぜか、テレビで「ビッケ」をやっていた。ジャパニメーションのはしりか?

■3月1日(ピンナクルズへ)
 大量の荷物をPacific Motelに預けたまま、Perth市内のAVISレンタカーに車を借りに行く。例によって日本で予約だけはいれたものの、出発前には予約O.Kの確認がとれていなかった。この時、最初に出てきた女店員は「いきなり車はない」などと、とりつくしまもない。「事前の準備は大切だ。」と痛感する。しかし、他の店員が出てきて、実は予約はOKで、車も有ることが判明。「事前の準備なんか適当でも大丈夫。」と思い直す。
 Nambung National ParkのThe Pinnaclesへ向かう。某「地球の歩き方」にはLancelinから北上すれば良いと書いてあったので信用して前進すると、分岐点は判らないし、道は見る間に砂道となるはで、危うくスタックしてしまうところであった。結局、Route1(BRAND HWY)まで戻り、Cervantes経由でThe Pinnaclesへ向かう。(後日確認すると、地球の歩き方には、「cervantesから」と書いてました。実は、そのときナビをしていたコウズィのミスだった。)
 The Pinnacles少し手前の道で、始めて野生のエミュウを見る。Pinnaclesは、高さ数メートルはある岩の柱であるが、この近辺の砂丘に生息していた原生林が30,000年ほど前に石化したものらしい。これが、この近辺の砂漠一面にうわーっと広がっている。
 Cervantesのキャンピンググラウンドでテント泊。夕食は適当にスパゲッテイ。
 この日の晩が初めての観測となる。空がだんだん暗くなるに連れ、星の数がどんどん増えてくる。写真を撮るものにとっては、観測を始める前に極軸あわせという難題が待ちかまえている。
 まず、八分儀座の台形をなす5等級程度の暗い星を探すことから始まる。つづいて、それらを極軸望遠鏡上に正確に位置合わせするのだが、我々が持っていった赤道儀の極軸望遠鏡についているパターンは南天用にカスタマイズされたものではないため、どこにあわせるといいのかがなかなかわからない。しかし、そうも言っておれず、一時間ほどかけてノブマサオヤジが根性で合わせた。追尾精度は、初めての観測の割にはよかったと思う。
 しばらく観測していると、同じキャラバンパークに泊まっているアメリカ人がやってきた。氏は動物写真を撮るプロのカメラマンだそうだ。雑誌(もしかしてNational Geographic?)に載せるための写真を撮りに五ヶ月前にオーストラリアに来たらしい。カメラ機材には、CANON EOSと600mm望遠レンズ、それにPENTAX645を持っていた。
 天体写真にも興味を示したみたいで、ご自慢の600mm望遠レンズで天体写真を撮りたいと言だしたのだが、そのときの状況では、天体写真撮影に全く不向きであることをなかなかうまく伝えることができなかった。ただ、折角だから、ダメで元々でηCarinaeと月を撮った。
 観測の後、氏がおもしろい話をしてくれた。エミューは"unlogical"だというのだ。少し近づくと逃げるけど、もっと近づくとカメラに食らいついてくるらしい。この後、氏はDarwinに向かい、さらに七ヶ月間オーストラリアに滞在して写真をとり続けるそうだ。

■3月2日(ハイデンへ)
 Cervantesのキャンプ場で朝目覚めると、テントの周りに海鳥(カモメ?)が不気味なぐらいたくさん群がっていた。正確にいえば、群がった鳥の足音で目がさめた。
 Nambung National Parkを出発し、Route1(BRAND HWY)を南下中に最高速チャレンジをする。Ford Falcon 3.5l NAはATながらも太いトルクで加速は鋭く、100km/hはすぐに越えてしまう。なにもない道がただひたすらにまっすぐと延びている。制限速度は110km/h。あっというまにこれも越えてしまう。
 メーター読みで150〜160km/hまでいったところで、徐々に減速に入った。すると遥か彼方の左コーナーから車らしいものが見えた瞬間、その物体からパッシングを受けた。即座に、パトカー車載のレーダーに速度計測をされたことを本能的に悟った。さらなる減速に入った直後、その車の上に青色の回転灯がともった。案の定である。Australiaにまで来て、警察の御厄介である。罰金AU$115。
 パトカーが我々の車のうしろに来るまでに、ノブマサオヤジは車外に出て警官がやってくるのを待
った。オーストラリア人の性格なのだろうか、警官まで温厚な性格をしていた。いろいろ会話が弾んでいたように思う。
 リュウノスケが記念写真を撮ろうとした瞬間、一人の警官が手錠を取り出した。一瞬背筋が凍る思いをしたが、警官のジョークだった。どうやら、折角記念写真をとるんだったら手錠と一緒にという意味だったようだ。
 あまりに暑く足が蒸れかけていたのでNorthmanでサンダルを買う。Northmanで昼食を取る。
 Northamを発った後は、Hydenへ向かった。ここにも妙な形をした岩がある。その一つは、高さ15mほどの波の形をしたWave Rockである。見るからに「波」である。この波の上に登ることができる。はじめの方は、波の天辺から落ちないよう柵が設置されていたが、途中からなくなっている。柵のないところからは、地面を見おろすことができるのだが、やっぱり足がすくんでしまう。おっこちる前にあきらめたのは正解である。
 もう一つ妙な形をした岩がある。それは、Hippo's Yawnといって、ちょうどカバがあくびをしたときの口のかっこに似ている。我々は、このカバの口の中をうろうろした。
 近くのキャンプ場で観測の準備をするが、曇って中止。
■3月3日(スターリングレンジへ)
 Hydenを発った後、Albany方面へ向かう。途中、Stiling Range国立公園に立ち寄る。レンジャーにお勧めの山を教えてもらい、歩いて上る。歩き始めてから30分ぐらいたつとノブマサオヤジとコウズィはペースが落ちてきた。ついに、二人はリタイアしてしまった。リュウノスケとアッキーさんは相変わらずどんどん足をすすめToolbrunup peakに登頂した。緑が多くてなだらかな風景、なかなか気持ちよい。
 Porongurupsにあるロッジに泊まることにした。我々の宿泊施設の前に木が生えていた。何やら変な鳴き声が聞こえてきた。ワライカワセミだった。やかましかったけど、その鳴き声がとても愉快だったのを覚えている。
 Albanyまで往復90kmの買い出しをした後、夕食。小雨のため観測なし。

■3月4日(バンバリーへ)
 Albanyの海岸の風景(Torndirrup National Park)を眺める。南氷洋も空も灰色で波は高く、けっこうサムザムしい。そんな中、我々は睡眠十分で意味もなく元気。Bunburyへ向かう。Pembertronで木の上ににある家(Gloucester Tree)に上ったりする。Lonely Planetによると世界一の高さの火の見やぐらならぬ火の見木らしい。
 Bunburyの海岸のキャラバンパークでテントを張り、近くの駐車場で観測。ノブマサオヤジは疲れの為に、カイド中不覚にも寝てしまう。
■3月5日(パースへ、そして超長距離バス。)
 Perthに戻り、レンタカーを返却し、Kings parkで昼寝。Kings parkでのアーストラリアン親子の会話。
 子供 「What's that?」(リュウノスケを指さして大声で)
 母親 「That's a sleeping Japanese.」
おいおい。
 夕方、Adelaide行きの長距離バスに乗り込む。Perthでは裸足がはやっているのだろうか?裸足の人(特に若い女性)をやたら見かける。
 W.A.とS.A.の境界を越える。2時間、時計を進める。陸路で時差というのは初めてだ。しかも2時間も。
■3月6日(バスの中)
 ひたすらNullarbor plainを進む。何もない。風景は全然変わらない。ディンゴとラクダを見る。溜まったスケッチの仕上げをする。昼寝する。
■3月7日(ウーメラへ)
 Adelaide着。AVISレンタカーまで歩いていって、車を借りる。Adelaideから内陸部を目指す。Adelaideからは、Stuart HWYを北上して、Alice Springsに向かう予定である。
 あれは確か、Port Augusta付近だったと思うが、ヒッチハイクしている人が目立った。その中に、"TO PERTH"と書いた紙を持っていた人もいた。バスで二泊三日かかる道のりをヒッチハイクしようという行動力と勇気は、はっきり言って脱帽ものです。
 Port AugustaでHungry Jack'sというハンバーガーショップで昼食を取る。この町で夕食用に食料品・調味料・ジュースなどを購入する。ただし、ジュースと思いこんで買ったものは、cordialといってアルコールに混ぜて飲むもので、(リキュールとかいうやつ)そのため、ものすごく味が濃い。ちょっと飲んでは水を足すといったことをしていたため、再びAdelaideに戻ってくるまで残っていた。
 ついでに醤油も買った。
 Woomeraに向かう途中、Dingoの群を見る。Dingoは、犬を狼に似せたような動物で、いかにも獰猛な感じがする。あんなのが束になって、夜中テントをおそってきたらたまったものではない。ついでに無数の小さな竜巻を見る。
 WoomeraのELDOというモーテル泊。 ELDOの駐車場で買ってきた肉を焼く。Woomeraで観測中に現地の人と歓談する この日は、23時頃から観測を始める。アッキーさんは睡眠不足と疲労のため寝ることにした。観測の用意をしていると、一台の車が近づいてきた。3(4人?)の男たちがでてきて、おきまりのように、きさくに話しかけてくる。そして、今回も訛りのきつい英語であった。我々が星を見ていることを知ると、彼らも話に乗ってきた。彼らによると、オリオン座の三ツ星と小三ツ星を結んでsource pan、とも座あたりにSeven sistersと呼ばれる星があるというのだ。残念ながら、Seven sistersが具体的にどの星だったのかはわからないままだった。われわれも、オリオン座は、日本では逆さまに見えるのだということを教えてあげた。とても不思議がっていたのを覚えている。

■3月8日(マーラへ)
 2時間睡眠で出発。リュウノスケは間違えてノブマサオヤジの分のパンを食べてしまう。その後、ノブマサオヤジにねちねちと責められる。食べ物のうらみは恐ろしい。
 Woomeraを発ち、Cooper Pedyという小さい町に着いた。ここは、オパールと地下居住が有名で、あちこちに"OPAL"、"Under Ground ..."と書いてある。地下ある店など、日本でもそこらじゅうにあるわけだが、ここの店はちょっと違っていて、オパールを掘り起こした後だと思うのだが、それをちょっと整形しただけで、壁は岩盤がむきだしのまま住んでいる。この町にはアボリジニーらしい黒人がたくさん目に付くのだが、店で働いているのはみな白人であった。
 Coober Pedyのオパール鉱の中にはいる。ここでアッキーがノブマサオヤジのカメラのソフトケースを紛失する。
 Coober Pedyのスーパーでリュウノスケは木製の「ねずみ取り」を買った。町のインフォメーション板の前でたむろしていると、国籍不明のおっちゃんがオパールを売りに近寄ってきた。いらないとごねたものの、結局5個でAU$20と安かったので買ってしまう。昼食はCoober Pedyでハンバーガー。
 あまりに暑いのでノブマサオヤジはMarlaのスーパーで半パンを買う。しかし、情けないことにサイズは小さかった。
 今晩は、Marlaで宿をとることにした。泊まったところは、ごくふつうのcalavan parkで、芝生とユーカリらしい木が周りに植えてあった。スプリンクラーが激しく水をまいていた。テントを張り、豪勢な夕食をとった。
 しばらくすると、風が強くなってきて、雷が鳴った。ときおりものすごい稲妻が走った。あまりにも風が激しかったので、テントが飛ばされるかと思った。
 この嵐は、一時間ほど続いただろうか、だんだん風も弱くなり、だんだんスプリンクラーの水音がはっきりしてきた。かすかな雲の切れ目から南十字星が輝いているのが見えた。我々にとって、ささやか
な愛の手であった。しかし、その甲斐もむなしく、みんなはあまりにもの疲労で観測する気配がなかった。 リュウノスケは一人で朝までスケッチ。オーストラリアでは薄明が短い。東の空が明るくても西は暗いままでコールサックも良く見える。朝の7:00頃まで天の川が見えていた。
 朝も全然寒くない。やはり南氷洋岸とは大違いだ。ちなみにこの日の最高気温は39℃。最低気温は24℃。

■3月9日(ユララへ)
 朝食には、コーンがゴロゴロ入ったスープ。テントを片づけ、Ayers Rockへ向けて出発した。途中、見える景色は相変わらずの赤茶けた土と薄汚い植物。ときどき、牛の死骸やタイヤのバースとした後の残骸が転がっている。
 10:50、South Australia州とNorthern Teritorry州との州境に来た。そのには、「ようこそN.T.へ」というような内容とN.T.州のシンボルマークが書いた看板があるだけだった。N.T.州にはこれで2度立ち入ることになるが、先はDarwinで亜熱帯性気候、今度はステップ気候と気候も植生も違うので、同じ州に来たという印象はほとんど感じなかった。
 さらに北上すると、「ニセ・エアーズロック」が見える。その名をMt. Connorという。本物とは違って、妙に角張っており灰皿を逆さまにしたような形をしている。しかし、巨大なことは本物と同様である。
 N.T.時間午前11時頃、Ayers Rockの天辺が見えた。思わず「見えた!」と声にした。だんだん近づくに連れ、大きく見えてきた。僕らがちっぽけな存在に見えてきた。
 Ayers Rockがあるのが、ULURU国立公園。ホテル等宿泊施設があるところがYULARA公園という。ULURUという名前は、Ayers Rockという名前がつく前に、アボリジニーによって名付けられたそうである。
 昼食は、ハンバーガーショップにて。Rock Burgerというのを食べた。赤カブからしたたる赤い汁がうっとおしかったのを覚えている。昼食の後、観測場所とAyers Rockの下見に出かけた。
 しかし、なにしろこの付近は蝿が多い。特にノブマサオヤジの鞄とアッキーの顔蝿がお好みらしく、びっしりくっついていた。
 あるview pointに行ったとき一つの看板が目に付いた。そこには、どうやら「Ayers Rockは世界最大の一枚岩ではない」らしいことが書いてあったのだが、われわれの語学力が今一つ確かでなかったのと、なんとなく怪しそうだったので、100%信じてはいない。しかし、未だに謎に包まれたままである。(その後、最大の一枚岩はW.A.にあるMt. Augustsということが判った。)
 また、sunset viewというところがあって、そこから見るAyers Rockの景色は、年に2・3度真っ赤に染まるらしい。そのイベントに我々は遭遇できるのであろうか?
 この日は、プールに入ったりしてのんびり夕方を待つ。しかし、いざ観測を始めると、30分もかけて極軸合わせをしたにも関わらず、今一つ透明度が悪いのと、時折空中放電らしき光がピカピカ見えてきた。結局、何にも観測できないうちに片づける羽目になってしまった。
 なお、アッキーはこの日コンタクトレンズを無くす。

■3月10日(エアーズロック)
 本日は、Ayers Rockに登った。朝8:00に出発したのであるが、Ayers Rockに来る前のどこかのガソリンスタンドのおばさんから、「朝早い方がいい」と聞いたのを思い出し、ちょっとしまったと思った。
 登山料は当時$5。はじめの方は、岩盤の急な部分が多いので、鎖が打ってあった。気をつけないと転がり落ちるようなところである。この急な坂と暑さはさすがにこたえた。頂上が見えているにも関わらず、アップダウンが続いているので長く感じた。
 しかし、ドイツゲルマン民族はちょっと違う。さすがワンダーフォーゲル発祥の地。毎晩、集まってビールで大騒ぎしているくせに、朝から歌なんか歌いながら軽快にAyers Rockを登ってゆく。恐ろしい。
 頂上でノブマサオヤジを待つが、がなかなか来なかった。氏の話によると途中で戻していたとか。しかし、登頂したときの気分はなんともいえないものがある。ちょっとばかし、登山家の気持ちが分かったような気がする。
 やはり、このあたりは乾燥しているのか、空の色が違う。ここの空の色は濃い。地平線近くでも日本の天頂より濃い。
 この後、アボリジニーの描いた絵と雨が降ると滝になるというところに行った。アボリジニーの描いた絵は、渦巻きが多かったが何を表していたのかはよくわからなかった。
 洗濯をした。しかしながら液体洗剤と思って買ったモノは漂白剤であった。ノブマサオヤジのティーシャツとコウズィのジーパンが白くなる。間違えたリュウノスケが弁償するはめになった。
 この日もsunset viewに行った。天気は良くなかったが、Ayers Rockに虹が架かっていた。そうこうしているうちに、ますます天気が悪くなり、ついに大粒の雨が降りだした。昼間に見に行った、滝になるとかいうところに行った。残念ながら、雨量が足りなかったため滝を見ることはなかった。
 ここで、Working Holiday visaで来ていた女の子にあった。彼女は2・3ヶ月前からAyers Rock周辺に来ていたのだが、雨を体験したのがその日が初めてだそうだ。彼女は「ラッキーですね」と言ってくれたが、天体観測を目的としていた我々にとっては、何とも言いがたい複雑な気分だった。
 その後、シャワーを浴びたのだが、ムカデがやまのようにやってきて、足にまで登ってくる。気づいた時にはふくらはぎ。ちょっと青くなった。シャンプーで撃退する。

■3月11日(ユララ2日間)
 計画では、この日ここを発つはずだったのだが、快適であったこと、Alice Springsに行くメリットも感じられなかったので、もう一晩ここにいることにした。
 昼間、Mt. Olgaの麓を散策する。リュウノスケだけは体力が余っていたので、午後にAyers Rock一周ハイキングに出かける。11kmの砂地。しかも蝿多し。しかし、なかなか楽しめる。
 夕方には、3度目の挑戦でsunset viewに足を運んだ。しかし、虹がかかっているのが見えたぐらいであるから天気は優れない。日の入りまで最後の望みをかけた。もう日が沈んであきらめかかったとき、突然Ayers Rockが真っ赤に染まった。ほんの1分ぐらいの間であったが、確かに赤く染まった。その日、YULARAに泊まって正解だった。
 1.5kgのミンチをハンバーグにして夕食。その後、2日続けての雨が降った。その日のはなかなか止みそうにない。それどころか、どんどん大粒の雨になっていった。23時頃であろうか、2人の女の人が我々のオンサイトバンに転がり込んできた。
 Vancouver出身のKellyさんとTexas出身のSofiaさんである。彼女らは、キャンプをしていたそうだが、この豪雨でテントが倒れてしまったらしい。二人は、カリフォルニアの大学で知り合って、卒業旅行でオーストラリアに来たそうだ。旅のことについていろいろ話をした。Ayers Rockに来て雨に合うというのは「ラッキー」だと言うと、とんでもないという顔をして、自分たちのことを雨女だとも言ってた。彼女たちは、これからCooper Pedyに行き、6月までオーストラリアにいるそうだが、いったいこの後、どういう旅をしたのだろうか?

■3月12日(アデレードへ)
 昨夜の2人と分かれた後、我々は再度Ayers Rockへ行った。雲のかかったAyers Rockを眺めて、爆走開始。彼女達と同じように、我々もCooper Pedyへ向かう。この日もこりずに雨が降っている。ステップ気候だというのに3日も雨が降り続いている。我々はよっぽどラッキーだったのだろう。延々と続く地平線、見渡す限りの砂漠、それと同じように分厚い雲が続いている。ふつうの日本人ならうんざりするもんです。
 Cooper Pedyについて夕食をとった。ピザを食べることにしたのだが、なんとこのピザ、目の前で作ってくれた。パンの生地をぐるぐる回していた。
 本当なら、ここで宿をとることになっていたのだが、我々は先を急いでAdelaideまで夜間走行することにした。カンガルー飛びだしで危険な夜間走行。

■3月13日(アデレード観光)
 約19時間の爆走の結果、朝9:30頃Aderaideに着いた。なんと、1600km一気に移動。
 ここAdelaideは、Yularaのような砂漠とは違って、ヨーロッパの町を思わせる。赤茶けた土がついたTシャツはもう通用しない。
 この日の宿探しは苦労した。安いドミトリーは当然のごとく満室。あれこれ歩き回って、メトロポリタンホテル名前のホテルを見つけた。部屋の中までヨーロッパを思わせるような作りだった。
 昼間はAdelaide観光に乗り出す。公園で巨大なまつかさを見つけて、みんなで大喜び。ノブマサオヤジはこっそり日本へ郵送するという危険までおかして、持ち帰った。(動植物の持ち込み持ち出しは厳禁。)
 アデレードでの夕食はインドネシア料理と言う名の中華料理。ところが、我々が想像している中華料理屋とは何かが違う。メニューには確かに"Chinese..."と書いてあったが、店の雰囲気はいかにもマレーシアの華僑という感じであった。実はこの店の店長は、マレーシア人。とてもきさくな人だった。料理は僕ら日本人には今一つあわない。でも、久しぶりに米を食べられて嬉しかった。
 本日のメインイベントは、Adelaideの夜景を見ることであった。パーキングをでるとき、そこのおじさんがいろいろアドバイスしてくれた。日本人観光客が多いWindy point lookoutよりもベターな場所を教えてくれた。Nortonというところで、先のview pointよりも標高が高く、眺めがいいそうだ。
 さて、Nortonめざして出発した。山を少しずつ登るに連れて、ときおりわずかに見える夜景がだんだん美しさを増していった。しかし、これといって見晴らしのいいところが見あたらない。パーキングのおじさんが言ったところは、いったいどこにあるのだろうか?ともかく、どこでもいいから見晴らしのいいところを探し求めた。すると、とうとうそれらしいところを見つけた。Mt. Loftyというところだった。Adelaideの夜景はさすがにきれいだった。街灯がずらりと並んでいて、クリスマスツリーのイルミネーションを思わせるものがあった。

■3月14日(スモーキーリバーへ)
 ついにタイヤがパンク。始めての修理。まあ、砂漠のどまんなかとかじゃなくて良かった。良かった。その後、昼食。砂浜でチキンの丸焼きを食べているとカモメがよってくる。それはそれは、砂漠地帯の蝿のようにたくさん。まさに「ヒッチコック」ワールド。
 Mt. Gambierで火口湖を眺めて、すっかりくつろいだ後、Smokey RiverというところでOn site vanを借りる。晴れ間を見て、観測態勢に入るが、すぐにベタ曇り。
 そろそろ東海岸に入るし、月の具合からも、観測は終わりに近づいている。ここで、帰国時に中国に寄るのをやめて、オーストラリアに居残り、再度新月を待って観測するという案が浮上してくる。

■3月15日(メルボルンへ)
 Great Ocean Roadを疾走する。London Bridgeを眺めたりする(今はもう落ちて、ないらしい)。The Twelbe Apostlesもよい感じだ。
 Melbourne市内のKings Gate Hotelに宿を定めて、トルコ料理のレストランへ。頼みすぎて大量に来てしまい、必死で食う。

■3月16日(メルボルン観光、フィリップ島)
 メルボルンを観光。メルボルン市内には車の2段階右折があったりして、非常に珍しい。教会を眺めたり、市場をうろついたりする。市場の駐車場にはポルシェのバンパーとリアウイングを装着したフォルクスワーゲンが駐車してあった。これがオーストラリア流のギャグなんだろうか?車検とか無いんだろうな。
 フィリップ島への道中ミミズの形をした建物を見た。どうやらミミズ関係の博物館らしい。オーストラリアまで来てミミズ見てもしかたないので、無視して通過。
 フィリップ島ではまずコアラの保護区に行く。うーん。どこをどうみても普通の林である。サーベイ開始!すると結構イルイル。ネテルネテル。ウゴカナイウゴカナイ。日本人のハネームーナーがやってきて、動かそうとコアラの居る木を叩く。目を疑う。
 ペンギンパレードをわくわくしながら待つ。しばらくすると、1羽がチョコチョコと浜辺を上陸してくる。ちょっと遠い所だ。残念。と思っていると、しばらくして、来るわ来るわ。浜辺のあちこちで群をなして上陸してくる。人間なんて全然気にしない。手の届くような所を通り過ぎてゆく。アッキィはここぞとばかりにISO3200のフィルムで撮りまくる。
 それにしても、バカ日本人多し。「立ち上がらないで下さい。ストロボは使わないで下さい」と日本語で説明してくれているのに、立ち上がってストロボを使って写真とりまくり。しかも30分もすると、「はーい、終わりですー」と、言われて帰ってゆく。バーカ。その後、どんどんペンギン増えていったのに。
 フィリップ島からセールへの道中の夕食は、閉店間際の品数の少ない店で買ったハンバーガー。店の兄ちゃんに「Australiaを車で旅行している。」と言ったら、「Australianの自分でもあんまり色々なところに行っていないのに。」と言っていた。 
 夜間、Saleまで移動。

■3月17日(キャンベラへ)
 キャンベラ。ここCanberraは、Australiaの首都であることから、Australian Capital Territoryという特別区にある。もともとは、首都をMelbourneかSydneyのどちらかにするか決めかねていたらしくて、それらの間にある町ということで、白羽の矢が当たったのだそうだ。車で移動していると、うっかりすればそうと気がつかないうちに通り過ぎてしまうぐらい小さい町である。町中でもオウム(インコではない。オウム。)が群をなして飛び回っている。
 宿泊は、ここのあるキャラバンパークに泊まった。そこで、2人の日本人男女と出会う。彼らは、僕らよりももっと長期旅行をしていた。もともとは、あかの他人同士だったのだが、旅の途中で知り合って以来、ずっと2人で行動をともにしているとか。
 彼らは、かなり旅慣れているようで、いささか癖はあるようだが、貧乏旅行のツボをよく押さえていたように思う。その一つを披露すると・・・
 キャラバンパークよっては、簡単に車の出入りができてしまうところがある。そういうところに限って、いちいち誰がどこにどれだけのテントを張ったかなどということも管理していない。こっそり進入して、こっそりテント張って、朝早くこっそり出ていくのだそうだ。そうして、テント張り逃げして宿代を浮かすことも多々あるのだという。そう言い残して、ここでもきっちり張り逃げをして行った。

■3月18日(シドニーへ)
 Caravan Parkを出てからは、Canberra市内を見学した。国会議事堂、戦争記念館、Burley Griffin湖。国会議事堂には、Australiaの歴史、経済、政治を説明した展示コーナーがあったため、素人目には、そこで行政が行われていると言うよりは博物館のように思えた。Canberraの印象としては、とにかく美しいことである。特に、国会議事堂から見える、Commonwealth ave.、Vernon circleの景色は芸術に値するものを感じさせる。
 ちょうどその日、首都のどまんなかの池で「鳥人間コンテスト」が行われていた。我々もオーストラリアンに倣って、芝生に寝ころんで眺める。しかし、我々の見る限り、全ての人はそのまま池に落ちているだけだった。レベル低い。単なる仮装飛び込みだ。でも、楽しそう。
 その後、Sydneyを目指して夜間走行。結局、道に迷ったり、目的地を変更したりしてKatoombaに付く。そのまま、車の中で寝てしまう。

■3月19日(シドニー観光)
 この日は、朝から霧がかかっていて、せっかくのThree sistersも陰も形も見えなかった。しぶしぶKatoombaを出て、Sydney市内へ行った。
 さて、宿探しであるが、安くがモットーである我々にとって、ホテルには用はない。あれこれ探し回って、あるドミトリーにたどり着いたのだが・・・
 このドミトリーは6人部屋で、すでに2人入っていた。部屋に入ると、一瞬目を疑ってしまうような光景であった。床には、コインが十数枚散らかっており、パスポートまでが転がっていた。女物の服、口紅まであった。いったい何者が泊まっているのやら。旅の質も落ちるところまで落ちたような気がした。
 悪いとは思いつつ、床に落ちてたパスポートを拝見した。持ち主は、カナダ人男性、21才。後で、このカナダ人男性と出会うのだが、特に人格に決定的な問題ありとは思えなかった。しかし、大事なパスポートを放ったらかすとは、大した度胸である。
 彼は高校を卒業したが、大学へは行っておらず、カナダに戻ってから大学に行くそうだ。行ったのかなぁ?彼のここ数週間の出入国の激しさに驚いた。香港、マレーシア、シンガポール、そしてここ、オーストラリア。次はどこへ行くのやら。
 もう一人は、デンマーク人女性、名前はLena。もちろん、女物の服と口紅は彼女のものだった。本物の女性でよかった。オカマだったらどうしようかと思った。
 我々の目には、彼女はいかにも遊び人に見えた。隣の部屋の白人男性となかがよかった。2日後、2人がベッドインしているのを横目に我々は部屋をでていくのであった。
 みんなダラダラしているので、リュウノスケ一人で市内に遊びに行く。公園で駒の大きさが50cmもある巨大チェスをしていた。しばらく眺める。その後、博物館に行った。シーラカンスのホルマリン付け発見。トリケラトプスの完全骨格発見。なかなか見応えあり。OZ Rock Cafeではゲイのにーちゃんにタバコをせびられる。
 その後、他の3人も市内見学に出た。Kings Cross駅に行く途中繁華街があって、昼間っから客引きをやってた。我々を見かけると、ここぞと言わんばかり下品な日本語を発した。はじめはおもしろがって聞いていたが、よくよく考えてみると、その日本語を教えたのは、我々と同じ日本人ではないかと思うと、やっぱり気分が悪い。
 Opera Houseに行く。巨大な貝殻を形取ったコンサートホールである。ここで、コンサートを見たわけではないが、何かのカーニバルが開かれていたのでそちらの方を見た。
 夕食はメコンという名のカンボジア料理店。豚の煮込みなんかをAU$4でつっつく。

■3月20日(シドニー観光)
 グレイハウンドでブリスベンからタウンズビルまで行く予約をしていたが、高いのでデラックスに切り替えることにする。その後、ノブマサオヤジ&リュウノスケの帰国便の延長をリクエストする。2人でアリススプリングスに戻り、次の新月も観測する予定。

■3月21日(ゴールドコーストへ)
 Sydney Harbour Bridgeを渡り、一路、Gold Coastを目指す。夕食はマクドナルド。夜中、道を間違えたりしながら、結局、付いたのは夜。そのままSurfers Paradiseのど真ん中の海岸沿いの駐車場で寝る。

■3月22日(ゴールドコースト観光)
 Surfers Paradiseの日の出を眺める。美しい。日の出と同時にサーフィンを始める人が居る。えらいこっちゃ。さらに浜辺を掃除する人が出てくる。なーんと金属探知器まで持ってる。合理的で徹底的だ。ホテルに金かけるだけではダメなことを知っている。
 Currumbin Bird Sanctuaryへ行く。インコ発見。オウム発見。ペリカン発見!なんてでかい口だ。エミュー発見。カメラを襲われる。コアラ発見。そしてついにウォンバット発見!!うーん全然ウゴカナイ。おまけにカンガルーも居る。オーストラリアに行ったら一度は動物園に足を運びましょう。とても楽しい。
 ちなみに、リュウノスケはインコ用の餌付け台を子供の遊具と間違って登る。途中で気づいて降りたが、間一髪で係員に見つかって怒られそうだった。
 ゴールドコーストのメインビーチキャンピンググランド泊。

■3月23日(ブリスベンへ)
 手続き関係のことばかりをやっていて何かをみたという記憶は乏しい。グレイハウンドのバスをキャンセルし、デラックスコーチを予約する。郵便局からシドニーで買い込んだ土産、本、キャンプ用品等の荷物を日本へ郵送する(Sea male)。ノブマサオヤジ&リュウノスケのAustralia出国延期確定などなど。
 ケンタッキーフライドチキンとセブンイレブンで夕食を調達し、BrisbaneのSpring Hill Terraceというモーテル泊。

■3月24日
 間違えて買った漂白剤を処分し、チェックアウト。レンタカーを返却。タウンズビルへバスで移動。見事な夕焼けを見る。普通、夕焼けは太陽に近い方から赤−白−青、という順列だが、この日は間になんとも言えない緑色の層があった。
 バス中泊。

■3月25日(マグネチック島へ)
 早朝にTownsxille着。Accomodation&Informationの双子のオヤジに「金がなくても行ける島ない?」などと聞いて、Magnetic Islandを紹介してもらう。とても親切な人だった。
 早速、Magnetic Islandへ向かう。あっと言う間に島に着き(そんなに沖じゃない)、バスで島の反対側へ。Shark WorldのCamp-O-Telというプラスチック製の安っぽい固定テントを借りる。しかし、やたらと密閉製が良く、中は異様に暑い。当然のように海水浴へ。半日泳ぐ。

■3月26日(マグネチック島)
 この日も泳いだり、カニを捕まえたりして、浜辺でのんびり過ごす。酔っぱらいのオヤジが泳いで溺れかけていた。

■3月27日(タウンズビル)
 タウンズビルへ戻る。こりもぜず、またプールに行って泳ぐ。ここで、悪ガキ2人登場。みんなで同レベルで遊ぶ。
 この日の宿はTransit Centre 内のBackpackers。なぜか宿泊客は夜景を見に連れて行ってもらえる。サービス満点。

■3月28日(アリススプリングスへ)
 朝からテナントクリーク北のスリーウェーを目指してバスで移動。なんにも無い。自転車が走っていたりする。かなり命がけ。
 Mt. Isaで製鉄所らしき工場を見る。いきなり砂漠の真ん中で製鉄。異様だ。

■3月29日(アリススプリングスへ)
 夜中過ぎにスリーウェー(Three Ways Roadhouse)でお別れ。アッキィとコウズィは出国の為、Darwinを目指す。一方、ノブマサオヤジとリュウノスケは再度観測の為、Alice Springsを目指す。
 昼前には無事にアリス到着。「自由自在」の宿紹介の1番目に乗っているAlice Lodgeに向かう。ここはなにしろ安い。Alice Lodgeに近づくと一匹の犬がすり寄ってきた。実はこの犬はAlice Lodgeの飼い犬でJessicaという。どうも、この犬、遊び相手を捜すため、自主的に客引きをしているらしい。とても賢い。
 枝を投げてもらいそれを取りにいくのが大好き。適当な枝を自分で探してきて、器用に折って、我々の靴の上に置くのだ。しかし、宿の中には「Jessicaは心臓病なので、運動させないで下さい、」という張り紙があった。この犬のおかげでアリス滞在に退屈せずにすんだ。しまいには、買い物まで一緒に行くようになった。ついでに言うと、このAlice Lodgeにはヨーグルトの好きな猫も居る。
 早速、Alice Springsの町中にある丘"ANZAC Hill"に行ってみる。そこで一人の日本人大学生に会う。彼の話では、「ここ1週間程雨が多くて、Aliceからの道は全て封鎖されて、身動きができなかった」らしい。我々はかなりラッキーだったようだ。

■3月30日
 ここでは夜の天体観測が中心の生活となる。昼間はゴロゴロしている。昼間ゴロゴロして出かけない日本人男2人組というのは奇異に見えたことだろう。しかもリュウノスケはマグネチック焼けで皮が剥けるので、部屋はやたらに汚い。でも宿のおばちゃんは文句を言いつつも掃除してくれる。ありがとう。
 ここにはありがたいことに共同キッチンがある。当然、自炊。ステーキ、ステーキ。なにしろ肉が安い。しかしこれには落とし穴があった。ノブマサオヤジはオーストラリアににて程なく便秘になった。その後、我々の食生活は変化していった。あんまりおいしそうではないが、野菜を食べる。そして、ヨーグルトがレギュラー化していった。
 キッチンはAlice Lodgeの社交場。リュウノスケは大阪に半年住んでいた饅頭と緑茶が好きなドイツ人女性に、箸の使い方を誉められたりした。ノブマサオヤジは最終日に不要になった皿を、ナベブタにステーキを乗せていた国籍不明のニーチャンにあげて、洗剤まみれの固い握手をした。
 自炊となれば材料。この買い物が楽しい。犬と一緒に出かけて、財布を忘れて、手ぶらで帰るといった事が毎日のように繰り返されてゆく。
 夜はまたスバラシイ。なにしろサソリ座あたりの銀河が太い。すばらしい夜空が毎日続く。あんな観測三昧の生活は、もうないのかもしれない。今考えると夢のようだ。

■3月31日
 Alice Lodgeの生活はなかなか快適なのだが、なぜか部屋の中に毛虫が多い。退治しても次から次へとやってくる。布団の中にも。どこから来るのか調べているうちに、部屋の前に転がっている丸太というか倒木にいきあたった。ひっくり返してみると無数の毛虫が!ノブマサオヤジはジッポーオイルを倒木に振りかけ、着火。この日以来、我々に安らかな睡眠が戻ってきた。

■4月1日
 なにもない。いつものアリスな日。ゴロゴロして、買い物して、夕食作って、星を見ただけ。

■4月2日
 Alice Lodgeの前の公園で見知らぬオヤジとフリスビーをする。散歩しているといきなり投げてよこした。まあ、楽しいのだが、こっちの体力も気にせず、どんどん遠ざかっていってしまうので、えらいめにあった。
 近所で評判になり始めたのか、観測中に多くの人の訪問を受ける。最初は11歳の女の子と15歳の男の子。なぜか最初はフランス語で話しかけてきた。次に犬の散歩中のにーちゃん。この犬がグランドシートの上に小便されてしまう。
 次に来たおやじは酔っていた。彼らはAstronomerを紹介してくれると言って立ち去った。
 その後、マサノブオヤジは観測中にタバコが切れてしまいAliceの町をタバコの自動販売機を求めてさまよう。そして当然の様に手ぶらで戻ってくる。オーストラリア到着直後のパースと同じ事をしている。全く学習効果なし。
 リュウノスケはオーストラリアに来てからの天体のスケッチが通算100枚となる。Aliceに戻って良かった。

■4月3日
 昨日の酔っぱらいオヤジの紹介でAlice Springs Astronomical Societyの老夫婦を紹介してもらう。この夫婦は我々をいつも観測しているポイントに連れていってくれた。ずいぶん郊外まで移動するので、質問すると、「町から出て遠くまで行かなくてはならないのは、世界中同じ。」との答え。まあ、暗さ自体の桁は違っても、やっぱりおんなじ事しているわけだ。
 ポイントにつくと、ピラーがニョキニョキ地面から生えている。どうも、主流はフォーク式でシュミカセというスタイルのようだ。この老夫婦もそうだった。日本では追尾精度とかを気にしてドイツ式が主流だが、ここではフォーク式でシュミカセ、ガイドはイージーガイダー。つまりガイド鏡なし。見せてもらった写真は立派なもんだった。SN1987(超新星)、M104、南の極、タランチュラ星雲、NGC5128、ケンタウルスα、ほ座γ星付近、SN1987観測用熱気球等の写真を見せて頂いた。ここで、老夫婦の話してくれたアボリジニの星に関する伝説を。
−最も大きな鳥ー
 コールサック(石炭袋)は暗黒星雲で銀河に開いた穴のように見える。ちょうどサソリ座が昇る頃、コールサックの口が横を向く。アボリジニはこれをエミューの頭にたとえた。ケンタウルスのαとβは首。南十字星はとさか。アンタレス付近が尻尾。ザソリ座の下半分は右足と左足。胴体の殆どは銀河の暗黒帯で形作られている。だからエミュー。まるで走っているようである。

■4月4日(ダーウィンへ))
いよいよAlice SpringsからDarwinへ出発する日である。部屋の中に山と積まれたchweppes, Deep Spring, XXXX, SWAN, Victoria Bitter, Foster's, EMU Export, Melbourne Bitter, Carlton Draught等の缶をを片づける。また、長距離バスだ。でも、もう慣れたもの。

■4月5日(ダーウィン)
 Darwinに到着。町中で土産物を買ったり、Choku氏のTake Away店でまた昼飯を食べたりする。土産物の中にはクラブへの土産のビール醸造セットが入っていた。税関で申告したら、持ち込む事自体は問題ないそうだ。ただし醸造すると酒造法違反らしい(1989当時)。その後、某大学の某サークルでは怪しげなビール作りが始まることとなった。
 一ヶ月前よりも激しいスコールを本屋でやり過ごしながら、スコールで塗れることなんか全く気にしていないオーストラリアンを眺めた。
 真っ赤な熱帯の夕焼けの中、宿に戻り、煮立った鍋の夢を見ながら汗だくで寝る。

■4月6日(出国)
 早朝に出国。ブルネイ経由で香港到着。エアポートのインフォメーションで宿の紹介と予約をしてもらう。ノブマサオヤジはくたびれていたので、リュウノスケ一人で食事。アヒルのミズカキのココナッツ煮なんぞを食べる。

■4月7日(香港)
 朝は粥。昼はマクドナルド。香港天空館(プラネタリウム)を見る。チョンキンマンションの側だけ眺める。トイザラスという巨大玩具屋を発見する。その規模にちょっと驚く。(当時はまだ日本には無かった。)ロシア語選択のリュウノスケは「トーイズイアアス」と読んでいた。
 なぜか香港人にやたらと広東語で道を尋ねられる。
 夕食は高級レストランへ。頼みすぎる。同席のイギリス人は更に頼みすぎている。エビチリとスブタを分けてもらう。

■4月8日(帰国)
 無事に帰国。


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